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サウスリッジホームの家造り
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こだわりの空間
暮らしのカタチ ― 盆から彼岸過ぎまで ― >>バックナンバー一覧へ戻る

 2009年9月13日産経新聞朝刊一面に安野光雅氏が描く 奈良 日本のふるさと「棚田と曼珠沙華(マンジュシャゲ)」という絵が掲載されていた。明日香村祝戸(いわいど)の小高い丘から多武峰(とうのみね)を遠望した絵で、右手前は南淵山(みなぶちやま)左の御破裂山(ごはれつやま)その間を流れる冬野川に沿った棚田の風景が描かれている。棚田の土手という土手に真っ赤な彼岸花が群生して咲いている。   
出会いと言うものは必ずしも時系列でやってくるものではないのだろう。サンケイにその絵が載る少し前、9月4日、5日と、家族旅行で行った津和野に「安野光雅美術館」があった。田舎にしては(という私は田舎の出ですが)堂々として立派な建物があった。津和野といえば森鴎外生誕の家、西周生誕の家、昼ご飯はうずめ飯をどうぞ、程度の予備知識しか持ち合わせていなかった。しかも旅行直前の間に合わせである。美術館で頂いたパンフレットには開館して今年の3月で8周年を迎えたとあった。もしも事前に知っていたなら最初からゆっくり時間をかけて見てまわれたのに、時間配分が悪く、結果駆け足見学になってしまった。もう少し、つまり旅行の前に安野氏の美術館のことを知っておればよかったと残念に思った。

  「曼珠沙華 ― むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎているしづかなる径」 ― 木下利玄 ―

 お盆から彼岸にかけて、「死んでいった人たち」のことを想う。お盆の墓参りでは、この10年くらいの間に亡くなったおじさんやおばさんのことを偲ぶ。そこにかれらのお墓がないにもかかわらず手を合わす。祖母についてはおぼろげに記憶があるが祖父は私が生まれる前に亡くなっていたから顔を知らない。私の両親は健在なのでお墓で手を合わせて浮かんでくるのは祖母の顔だけで、それより昔の人たちは、墓石に彫られた戒名を見るのみである。従ってお墓参りをしても特別な感慨と言う程のことはない。それでもご先祖さまの墓石に手を合わせていると清清しい気持ちになれる。不思議である。わたしは先祖代々受け継がれているDNAの媒体にすぎないのだろうかと考えてしまう。

 お彼岸には死んでいった知人や友人のことを思う。若くして(49歳)死んだ司法書士のN先生。秋津原ゴルフ場最終ホール、パー4。私も先生も池越えのツーオン。すごくうねったグリーン。先生はパーで、私はボギーだった。先生はシングルの腕前なのだった。ホールアウトしてクラブハウスへ向かう道中「コホ コホ」と小さな咳をしておられた。後日肺がんとわかった。それから1年と半年で亡くなられた。先生は180センチ以上と上背があり、ちょっと猫背ぎみで歩いておられた姿が懐かしい。私には大切な人だった。

 ◆Kのこと。
中学時代にバレーボール部で一緒にプレーした友人だ。高校は別々だったが、部活はお互いバレーボール部だったので練習試合をよくやった。何十セットやったのだろう。三年生になると私の弟も高校一年生となりKと同じ高校のバレーボール部に入ったので更に多くの練習試合をやった。
私は彼が生きているものと思っていたが、この夏私の恩師から「Kが死んだと聞いたが本当か」と問われた。弟に確かめると2〜3年前に亡くなったよ、ということだった。私の中で彼は今も若き日の姿、笑顔のままで生きている。しかし現実には2〜3年前に死んでこの世には存在しないのである。不思議なことだ。彼の死を知らなければ彼は私の中で今も生き続けていたのに。

 ◆Yのこと。
Yは小学校のころの友達だ。Yと遊んだ記憶はたった一度しかない。彼の家の周辺に広がる田んぼの溝で鯰を手掴みで捕まえた。田んぼの溝は農業用水路で縦横に走っていた。当時の水路は巾45センチ程で、土を固めて造られており、水辺の土手はこんもりと草で覆われていた。鯉、フナ,ヤゴ、めだかなど色んな生物がいた。Yと私は鯰を十数匹捕ってバケツに入れ彼のうちへ帰った。彼の家で「クコの実」を食べさせてもらった。「クコの実のことはお父さんには内緒だよ」「お前は特別な友達だから食べさせてやるんだぞ」とYは胸をそらし自慢げに私に言った。私はしばらく家の中で彼と遊んでから、バケツに水と鯰を入れ自転車に積んで家に帰った。母親だったか父親だったか忘れたが、とにかく一刻も早く親に見せたい一心で自転車を飛ばした。到着してバケツを荷台から下ろしてみると、鯰は2〜3匹しか残っていなかった。帰る途中でこぼれ落ちていたのである。
小学生時代の一場面なのに今でも、なにかの拍子に思い出す。その原因は彼が高校生のとき、交通事故で死んでしまったことによるのかもしれない。かなりショックだった記憶がある。そのショックがトラウマになって今でも記憶がフラッシュバックするのだろうか。

 ◆彼岸花
 彼岸花は私の田舎では「こんこん花(ばな)」と呼んだ。姿が狐の顔を思わせるかだろうか。小学校の帰りは道草をしながら帰る。田んぼの畦道を歩きながら細い竹のムチで彼岸花を何本も何本も切り飛ばした。花の首のちょっと下の茎を切り飛ばすのである。慣れてくると手首を少し利かせるだけで面白いように切り飛ばせた。切っても切っても赤い花ははるか遠くへ続く畦道に群生していた。

 10月の終わり、彼岸花はとうに枯れ、稲田は刈り取られ、自然は次第に初秋から晩秋へ移ろうとしている。イチジク畑へと続く田んぼ道を歩きながら、私は死んでなお私の中に生きている人々と対話し、生きながらすでに私の中で死んでいった者たちへ弔鐘を鳴らすのである。  <藤原>

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