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サウスリッジホームの家造り
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暮らしのカタチ ― 背 中 ― >>バックナンバー一覧へ戻る

孫が二人いる。男の子でトシゴである。上の子が今年から小学校の一年生になる。広島のおじいちゃんおばあちゃんに買ってもらったランドセルを背負って記念撮影。ピッカピカの一年生だね。嬉しそうに笑っている。二宮金次郎みたいだ。ついこのあいだまでバブバブとしか言えない赤ちゃんだったではないか。それがもう小学生かと思うと時の流れの速さに驚く。下の子など「オレなァ」などと一人前のつもりであるが呂律がまわっていない、れろれろである。まだ5つというか、もう五歳というか。とにかく時の経つのは早いものです。

 徳川家康は「人生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し」を人生訓の一つにしていたと言われている。生老病死という四苦と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦をあわせて四苦八苦というのだそうが、人生はその四苦八苦という重い荷を背負って遠い道をいくものだよと教示しているのだろう。そう思うと人間の背中と言う存在はまこと重苦しい部位ではないか。なにしろ全ての重荷を引き受けなければならないのだから。それでいて自分自身では見ることが出来ない場所でもある。子は親の背中を見て育つと言われているが、果たしてどんな具合に見えているのか、立派に見えていればよいが、頼りなく見えているとすれば子供たちに申し訳ないような気がする。背中というものは「泣いて」いたり、「我慢」をしていたり、人が「去って」いく後姿であったり、借金を「背負って」いたりと、どちらかと言えば「負」「陰」のイメージがつきまとう。それなのに背中を見て育つとはどのように理解すればよいのでしょう。

 その点、ランドセルは、いい。それを背負う背中も明るい。ランドセルには夢がいっぱい詰まっているようだ。背中もランドセルを背負って張り切っている。ランドセルを背負ってはしゃいでポーズを取っている姿を見ながら、孫たちには一生ランドセルを背負って生きて欲しいなぁと思うのです。

 私の父は米寿と言われる年齢になりました。元気なスーパー爺さんですが、その原因は若い頃の物凄い体力のおかげと言えます。戦時中(太平洋戦争)満州で大砲の砲身を一人で背負って山を登ったそうです。一本110kgはあったと言います。大砲は平地では引いて運ぶのですが、山を越えるときは分解して運び上げるのです。砲身は二人で運ぶのが通常だったので、周りの兵隊たちは皆びっくりして恐れ入ったそうです。また私が小学校5〜6年生で父が炭焼きをしていた頃のことです。ある日の夕暮れ、父は炭俵を6俵ほど背負って急な山道を走るように下ってきました。その姿は鬼が山を下ってくるように見えて怖かったのを覚えています。炭俵は萱(かや)で筒状に作られており、白炭を入れると1俵20kgはあったと思われるので、ほぼ100kgから120kgの炭を背負っていたことになるから驚きです。桑の葉、の話。昭和60年頃、但馬の出石でも養蚕は結構盛んでした。何処の農家も「蚕(カイコ)さん」を飼っていました。蚕のえさは桑の葉です。
ある日、桑の葉を背負って家に帰る途中、アシダニというところ(村)で一休みしていると、近所のオトナが「わしの息子はあんたより力もちじゃで」と言った。私の父は「ほんなことやったら、この荷を背負ってみるか」と言い、息子が「よいしょ」と背負って立ち上がろうとしたが一向に立ち上がれなかった。「あんたには参った」とオトナが頭を下げた、と言う話。

 まだまだ父の力自慢の話はありますが、それはまたの機会にゆずり、父の背中についての話です。小学校2〜3年生の頃だと思うのですが父に「おんぶ」してもらった記憶が鮮明にあります。冬の寒い日で私は手拭でホッカムリをして父の後から歩いていました。突然父が振り向いて「やめとけ、泥棒みたいじゃ」といって手拭をむしりとって、そのあと私をおんぶしてくれたのです。大きな背中にコアラがとまったようなかんじです。大きくて硬くて温かい背中に向かって「おとうちゃん」と言った様な気がします。

 孫をおんぶするとそのときの情景を思い出します。この歳で父におんぶしてもらうことなど気恥ずかしいことですが、一度本気で「爺(父さん)さん、今でも俺をおんぶできるか」と言ってみようかなと思ったりします。私の尊敬する本田宗一郎さんは亡くなる前、奥様に「おんぶして部屋を歩いてくれ」と頼んだそうです。(どこかで読んだ気がして資料を探したのですがみつかりませんでした)ひょっとすると本田さんはそのとき父親におんぶしてもらった子供の頃を思い出されていたのではないかと思うのです。
<藤原>

 

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