宮崎県で口蹄疫病が発生し豚や牛十何万頭が処分されるという事態が発生した。エース級の種牛6頭のうちもっとも優秀といわれた1頭が殺処分された。残りの5頭と、一般種牛49頭もどうやら処分されるという。「宮崎牛」というブランド名も存亡の危機にさらされている。新聞の記事によると宮崎牛の種牛の元祖は但馬牛だという。但馬といえば故郷であり、その故郷で私は18歳まで但馬牛」と同居生活をしていたのである。 1960年頃、私達の家には牛部屋があり、雌牛1頭が飼育されていた。牛小屋ではなく牛部屋である。つまり牛は同居家族の一員だった。「タネツケ」があり10ヶ月程すると子牛が生まれる。「タネツケ」の時期はどうやらオトナには解るらしかった。小学生の頃、産まれたての子牛を見たことがあるし、産まれてすぐに立ち上がろうとする姿をみたこともある。子牛を包んでいた羊膜を母牛が食べようとしていた。食べようとしていたのか単に舐めていただけなのかは解らない。母牛が子牛を大きな舌でべろべろ舐めている。30分もすれば子牛は立ち上がれるようになる。メスなら「オンナメ」でオスなら「コッテウシ」である。メスが産まれるほうが喜ばれた。高く売れるからであった。まぁそうして生まれた子牛と母牛を外に出して食事兼散歩いわゆる牛飼いが子供の仕事(お手伝い)であった。周辺には牛を散歩させながら草を食べさせる畑とか田んぼがあった。牛は農家にとって貴重な労働力でもある。田んぼを鋤でおこすのも、起こした田んぼをカキならすのも牛の動力に頼っていた。牛は家族の中で頼りになる働き者なのであった。
犬も猫も飼うとかわいいと思うが、子牛は大きくて迫力満点の可愛さがある。我が家のペットは猫と子牛であった。子牛のことを「べコ」と呼んだ。べコは2〜3ヶ月経つと言う事をきくようになる。母ウシは子供の言うことなど、聞いても知らんふりだが、子牛は子供の言う事をちゃんときいてくれる。子供としては自分の「こぶん」ができたようで、嬉しい気分になったものだ。 ジョーン・バエズの「ドナドナ」という歌がある。ある日、子牛は売られていくのである。子牛だけでは運搬車に乗らないので、母牛を先に乗せてから子牛を乗せる。騙して乗せるのである。母牛は直感的に危機を察していて、四足でふんばってなかなか乗らない。しかし終には母牛も子牛も車に乗せられて牛市へ連れられて行き、子牛は売られてしまう。ジョーン・バエズは兵士の悲哀を歌ったかもしれぬが、私は戦うことすら出来なかった子牛の運命を知るものである。故にバエズの歌を忘れられないのである。
子牛のいなくなった牛部屋で母牛は昼夜泣き続ける。10日くらいは泣き続けてそのうち泣きつかれて泣かなくなる。小学生の私の心は傷ついた。1年間一緒に遊んだ子牛。夏にはアブが沢山牛にたかる。そのアブを棕櫚の葉で作ったハエタタキで叩き落としてやった。子牛は嬉しそうに尻尾を振った。子牛でもオンナメはまだ母親になる可能性があり救われるところがあるが、コッテウシは去勢され、3〜4年飼育され、肉牛になり殺されるのである。