帯
ロゴ
ホーム 新規物件 こだわり空間 会社概要 住宅性能保証 最新広告情報 お問合せ
サウスリッジホームの家造り
サウスリッジホームの家造り
こだわりの空間
暮らしのカタチ ― 極点 ― >>バックナンバー一覧へ戻る

 この夏二人の作家の本を読んでいてよく似た文章に出会った。一人は吉村昭氏であり、もう一人は曽野綾子氏である。
先ず吉村氏の「月夜の記憶」(講談社文芸文庫)51ページから。
「私には、旅先で母の死の報せを受け頬が弛んで仕方のなかった記憶がある。可笑しいという感情に近いものだった。―私の母も、世の人間と同じように例外ではなく死が訪れることがあったのか、ということと、それに伴って、自分も世間のしきたりに従って母なし子になってしまった、といったような、仲々にロジカルな可笑しさであった。」

 次に曽野綾子氏の「言い残された言葉」(光文社文庫)51ページから。 
 「私の母が亡くなったのは二十年以上前、或る土曜日になったばかりの夜半、午前二時頃だったが、翌朝、私には講演の約束があった。夫は私に、ほとんど眠っていなくても、講演の関係者には全く知らせずに予定通りでかけなければいけないと言った。

 早朝葬儀社に来てもらって、母の納棺と家族だけの葬儀の打ち合わせを済ませると、私は一人で新幹線に乗ってでかけた。それは信じられないほどよく晴れた透明な朝で、不思議なことに、祝福されているような明るさに満ちているように私には感じられた。長い間病床にあった母は亡くなった時八十三であったが、その朝からは、母は四十歳か五十歳若い元気な姿に戻り、今、私のすぐ傍らに同行しているように感じられたのである。母と旅行に出るのはひさしぶりだ、と私は感じた。母は何年もの間、不自由で苦痛の多かった肉体から解放されて、今朝からは自由な歓喜の中にいるように私は感じられた。」

 吉村昭氏は書く。地球の極点に達すると、磁石の針は、逆立ちすると言う。それを初めて経験した人はその現象に深い感動を覚えたことだろう。人間性も、或る極点に置かれた場合、磁石の針と同じように、厳しい偽りのない何ものにもわざわいされぬ姿勢をとるにちがいない。と。
 昔、早乙女勝元氏の講演を聞いたことがある。「三島由紀夫はけしからん男です。東京大空襲で夜の東京が火の海になっているのを見て(美しかった)と言ったのです。多くの人が焼け死んでいるというのによくもそんなことが言えたものだ。こんな男は認めない」と氏は言った。その講演のせいか私は三島嫌いになってしまった。
 しかし、考えようによっては、そのとき三島は極点に立ち厳正な(偽りのない)心理的姿勢をとって、(ウツクシカッタ)と表現したのではなかったか。吉村氏は「人間はこの極点を通過する時に、必ず厳正な心理的姿勢をとり、間違いなくドラマが生まれ出てくる。そのドラマを表現することが文学であり、文学の芸術たる所以なのではあるまいか」と書く。そう考えると三島由紀夫は文学を芸術にする才能を有した作家であったと言えるのではないかと思えてくるのである。

 作家の司馬遼太郎氏は大人になっても「少年の心をもつことが大切です」と言う。大人になっても持つべし少年の心とは一体何か。私は「極点」を通過する時、厳しいなにものにもわざわいされぬ心理的姿勢(感動)を素直に表現できる心がそれにあたるのではないかと考えてみた。むしろ「少年のこころ」といった漠然として不確かな心情にくらべて、より高度な心理的姿勢といえるのではないかと思ってのことである。

 人間35歳にもなれば結婚もし、子供の2人もいて、それなりの職業につき、係長とか課長と呼ばれ、部下を連れて酒場に行きカラオケで十八番のひとつも歌うだろう。ある宗教に凝っていることもあるし、無宗教であるかもしれない。政治的には保守か革新か、あるいは中道であろう。もしかすれば無党派であるかもしれない。いずれにしてもその人なりの「イズム」をすでに身につけていることだろう。イズムとはキリスト教、イスラム教、神道、仏教のように宗教的なものや、共産主義、自由主義のように政治的なものもある。音楽とか絵画彫刻のような芸術的分野にもイズムはある。もちろんそれらから派生する無数の分派主義が限りなく存在する。個人的性格には楽天主義、悲観主義、虚無主義がある。享楽主義もあれば厭世主義もある。社交的とか内向的は主義とは言わないかも知れないが性格による個人的な主義というものはあるだろう。上記のようなもの全体をひっくるめて「イズム」と呼ぶ。人は生まれてきたときは無垢であるが、35歳にもなれば様々な「イズム」に塗(まみ)れている。「イズム」は人を生かすこともあるが殺すこともある。たまにその人のうまれながらにして持つ性質なり素質が「イズム」と(そり)が合わなくなることもある。或いは異なる「イズム」が外から攻撃してくることもある。そして―悩み―が生れる。

 

                     「イズム」から脱却するには

 

 吉村氏は「―可笑しいという感情に近いものだった。」と書き、 曽野氏は「―祝福されているような明るさに満ちているように私には感じられた。」と書く。この感情は「イズム」に囚われずむしろ脱却した表現であると思う。「イズム」からすれば(なんと不謹慎な)というところだろう。仮にそれが不謹慎だといわれても「極点」を通過するとき厳しい偽りのない何ものにもわざわいされぬ姿勢があることは確かだ。そしてその姿勢こそ「イズム」から脱却する方法であり、司馬遼太郎氏の「少年のこころ」に匹敵する「大人のこころ」ではないかと思うのである。

 人生、何度か「極点」を経験することがあると思うが、そのときの偽らざる心理的姿勢を見つめ極めることが「イズム」から脱却するチャンスであるに違いない。 <藤原>

 

pagetop
サイトマップ 個人情報保護方針 このサイトについて