作家の司馬遼太郎氏は大人になっても「少年の心をもつことが大切です」と言う。大人になっても持つべし少年の心とは一体何か。私は「極点」を通過する時、厳しいなにものにもわざわいされぬ心理的姿勢(感動)を素直に表現できる心がそれにあたるのではないかと考えてみた。むしろ「少年のこころ」といった漠然として不確かな心情にくらべて、より高度な心理的姿勢といえるのではないかと思ってのことである。
人間35歳にもなれば結婚もし、子供の2人もいて、それなりの職業につき、係長とか課長と呼ばれ、部下を連れて酒場に行きカラオケで十八番のひとつも歌うだろう。ある宗教に凝っていることもあるし、無宗教であるかもしれない。政治的には保守か革新か、あるいは中道であろう。もしかすれば無党派であるかもしれない。いずれにしてもその人なりの「イズム」をすでに身につけていることだろう。イズムとはキリスト教、イスラム教、神道、仏教のように宗教的なものや、共産主義、自由主義のように政治的なものもある。音楽とか絵画彫刻のような芸術的分野にもイズムはある。もちろんそれらから派生する無数の分派主義が限りなく存在する。個人的性格には楽天主義、悲観主義、虚無主義がある。享楽主義もあれば厭世主義もある。社交的とか内向的は主義とは言わないかも知れないが性格による個人的な主義というものはあるだろう。上記のようなもの全体をひっくるめて「イズム」と呼ぶ。人は生まれてきたときは無垢であるが、35歳にもなれば様々な「イズム」に塗(まみ)れている。「イズム」は人を生かすこともあるが殺すこともある。たまにその人のうまれながらにして持つ性質なり素質が「イズム」と(そり)が合わなくなることもある。或いは異なる「イズム」が外から攻撃してくることもある。そして―悩み―が生れる。
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