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暮らしのカタチ ― ひょっこりひょうたん島 ― >>バックナンバー一覧へ戻る

 4月2日ハガキが届いた。Оという男からで、全文英語であった。訳すと「定年退職しました。大した成果は残せなかったけど、友達は沢山できた。ところで、これから僕の夢の島は何処へ向かって航海してゆくのでしょう」と書かれており(ひょっこりひょうたん島)の絵がグリーンで描かれていた。おいおい、チョッと待てよ。ひょうたん島は私〈オレ〉の女房の特許のはずだぜ。

 兵庫県I郡(当時)I中学校の卒業旅行は東京方面であった。旅行日程に「日光」が入っていた。途中のいろは坂をバスがくねくねと登って行く。我々生徒は右へ左へと揺さぶられ続けていた。そのとき一人の女生徒が突然「ひょっこりひょうたん島」のテーマ曲を歌い始め、最後まで歌いきったのである。全員ァ然としつつ、相変わらずその歌を聞きながら右へ左へと揺られ続けた。その歌のお陰か車酔いした者がなかった。だから「ひょっこりひょうたん島」といえばそのとき以来私の中では彼女の専売特許となっているのだ。

 博士(はかせ)、ダンディーさん、ドン・ガバチョ、ライオン、トラヒゲ、などが活躍したNHKテレビの人形劇は当時大変な人気であった。中山千夏。藤村有弘、熊倉一雄、楠木トシエなど、懐かしい名前の人たちが声優として活躍していた。作者である井上ひさし氏は近年亡くなられてしまった。中山千夏は昨日色川武大氏の文庫で読んだばかりでひょいと思い出したが、最近はあまり噂を聞かなくなった。子役の頃から才女といわれた人がどのような「ひょうたん島人生」を航海しているのか、興味があるといえばあるのだが。

 兵庫県I郡(当時)h小学校。卒業間近の頃、Оと私とSは担任のK先生のお宅で仲良く写真に納まっている。だからその頃Оとは仲が良かったのだと思う。中学生になってからはお互い全く別の道を歩み始めた。K先生は何の因果か小学校の教諭から中学校の教諭に「進級」し、中学1年生の私の担任となった。バレーボール部の顧問になったとかで「Fよ、バレーやれや」と私を勧誘し私はつい「ハイ」と言ってしまった。以来私は中学校、高校と6年間のバレー漬けの日々を送ることになるのである。一方Оは「コシアカつばめ」の生態の観察を、雨の日も風の日も行い、詳細で確かな記録を残した。確か「賞」を貰ったはずだ。私の知っている彼はもともとMという姓だった。彼がいつ、どのような事情でОという姓に変ったのかは知らない。そのことが彼の人生に、つまりものの考え方にどのような影響を与えたのかも私には分からない。

 卒業式を間近にした中学生最期の春。卒業文集を作ったり、寄せ書きをしたりして皆があわただしい日々を送っていた。そんな日常のなんかの折にОがある女生徒に花言葉を贈った。(Forget  me not )つまり「忘れな草」のことだ。まだ若くて純情だった彼女からそのことを聞かされたとき「田舎もんがエエ格好しやがって」と思い更に「アホカ」とも思った。

 以来私は彼に対して漠然とした嫌悪感を持っているのである。今回のハガキを見たとき、お前は一度でもみんなの前で「ひょっこりひょうたん島」の歌を歌ったことがあるのか? と問いかけたとき、私の嫌悪感は〈マチガッテイナカッタ〉と正当化されるのである。

 われらの世代はどんどんリタイアしている。まあそれぞれが「ひょっこりひょうたん島」みたいなもので、夢があろうが無かろうがお構い無しで漂流してゆくのだ。しかしОのひょうたん島と、私のひょうたん島は一生まみえることはなく漂流してゆくのだろうなァ。それは確かなことである。<藤原>

 

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