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サウスリッジホームの家造り
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暮らしのカタチ ― ジャガイモ ― >>バックナンバー一覧へ戻る

 新聞の切り抜きをほぼ毎日している。産経新聞が主である。時々自宅以外の場所で気になる記事を見つけると携帯で撮る。最近ではやなせたかし氏が亡くなられた日(平成25年10月13日)から1週間過ぎた21日の新聞記事を銀行のロビーで見つけた。
 
 柳瀬家はここにあった
 三百年以上続いた旧家だが
 今は影も形もない
 一族の墓は
 後方の
 山の中腹にある
 ぼくはここでねむりたい
 故郷の土はあたたかい
 木蓮科のマグノリア
 一本の朴の木にぼくはなりたい
 季節には
 はにかみがちに 
 白い花を咲かせて
 風の中でゆれていたい

 平成25年9月17日。朝から快晴であった。台風で福知山市や京都の渡月橋周辺が大変な被害を受けたというのに、なぜにもこんなに空は碧く美しいのか。私と父は朝からジャガイモを掘った。秋枯れした40坪程の畑は草が茫々と茂っていた。せいぜいシシトウの葉の緑色と秋茄子のくびれた実の紺色が色彩を留めているばかりであった。畝らしき盛り上がりが3筋ほど見えた。真ん中の畝をクワで掘る。枯草がクワに絡む。構わず、掘る。そのうち土の表面近くから小さなジャガイモたちが顔を出し始めた。しばらく芋ほりを続けていたら、爺さんが(父のこと)毅然とした声で

 「そんなこっちゃ、アカン」 と言った。

 父はクワを持つと、先ず、ゆっくりと畝に纏わりついている枯草をこそげとっていった。枯れた所作で無駄がない。そうして処理された畝を丁寧に掘ってゆくとカラカラに乾いたジャガイモが転がり出てくるのであった。いつかテレビで見たアンデスのジャガイモそっくりであった。

 「こうするんじゃ」 とクワを構えて父が言ったとき私は、「子連れ狼」のワンシーンを思い出していた。

 「大五郎、持つということがわかるか。百姓がクワを持つように、商人がそろばんを持つように、武士が刀を持つように、持つということの大切さがわかるか・・・・」 と公儀介錯人の拝一刀が一子大五郎に言った言葉である。

 92歳の父は体力がなく、チョット作業して止めて仕舞った。我が拝一刀は92歳、体力がないのも〈むべなるかな〉。今頃そんなこと教えてくれてもなあ、と私は思った。そんなとき弟がディレクターチェアーのような簡易型長椅子を用意してくれ、3人で座った。

 「エエ天気やなあ」と父は言い、サントリ―プレミアムをゴクゴクっと飲み、
 「やっぱり、ビールはうまいなあー」
と言った。
 「やっぱり、ビールはエエなあ」と私は言った。「なんぼでもビールあるでえ」と弟が笑った。


 昔、父は炭焼きをしていた。冬の稼ぎである。私は冬休みや春休みには父の炭焼きを手伝った。炭焼きにも資格があると聞いたのはつい最近である。「中国式」?とか言うそうだ。
木の種類とか、鋸の目立てとか、鉈の使い方とかを教えてもらった。炭焼き窯のスタイルとか、木の込め方とか、炭が出来上がるまでの煙突から出る「煙の色の変化」とかを覚えた記憶がある。そのころ二人で多くの木々を切り倒して炭を焼いた。 小楢、ミズナラ、くぬぎ、樫木など。その中に「朴の木」もあった。太く、高木で風にゆっくり揺れていた。何本も何本も切り倒した。朴の木は4〜5本がかたまって生えていた。周辺には不思議と草木がなかった。私は父に「これ、炭になるン」と聞くと、父は「いや、下駄になるンや」と答えた。朴の木(ほうのき)は柔らかく暖かい木肌をしていた。朴の木の葉は柏餅の葉に似ていた。

 やなせさんの詩を読んだときその頃を思い出した。父が43歳で若く、私は、13歳の少年であった。
ジャガイモを掘ったその夜、私と父と弟の三人でビールを飲んだ。

 「今日はエエ天気やったなあ」「やっぱりビールはうまいなあー」と父は言った。
 「やっぱり、ビールやなあ」と私は言った。
 「なんぼでもビールあるでえ」と弟が言った。
 父は軽い認知症だが、今日は調子が良いようだった。 

 

 若し出来ることなら、庭に朴の木を植えたい。
 20年もすればそれなりの高さになっているだろう。
 80歳を少し超えた頃
 リビングルームのロウソファーに寝転んで
 南に大きく開けた窓の向こう
 春の風に揺れる朴の木を眺めていたい
 ビールを飲み 小説を読み そして微睡んでいたい。
<藤原>

 

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