琉球朝顔は旺盛な繁殖力だ。毎年放っておいても再生し、その版図を年々拡大してゆく。夏秋冬と繁茂し花を咲かせてフェンスを占領していたが、さすがに春先には枯れ果てていた。フェンスは緑色のよく見かける普通のネットフェンスで高さ1.8mある 。我が家の東西に細長い裏庭と南側のSさんの広大な畑との境界に今は亡きS爺が設置した力作である。 休日の昼すぎ、鎌と刈込み鋏を持ち出し琉球朝顔の片づけを始める。フェンスに巻き付いているので鋏は不適と解る。 鎌を使う。 蔦をくるくると巻きながら鎌の先っぽを使いかき寄せ、ざくりと切り取る。何回か続けるうちにリズミカルな感じになってきた。 思わず「才能あるなぁ」と自分自身に感嘆し、じっと手を見る。 フト石川啄木を思い出す。
「働けど働けど猶我が生活し楽にならざりじっと手を見る」
小6のころ啄木短歌集を一生懸命暗唱したことを思い出した。新書版より小ぶりでブルーの表紙はビニールのような肌触りであった。「きのうより色も変われるアジサイの瓶をへだてて君と語りき」とか、結構覚えていたものだ。東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる。故郷の山に向かいていうことなしふるさとのやまはありがたきかな、とつぶやきながら作業を進める。ますます要領が良くなって調子がいい。もっともっと朝顔の蔓があればいいのになぁとさえ思ったりする始末である。小さい頃に「体で」覚えたものは案外忘れていないものなのだ。
最近田舎の農家ではもち米を作らなくなった。うちは伊勢の名物「赤福餅」で使われているのと同じ銘柄のもち米を作っている。また古代米の赤米だか黒米だかも作っていた。 余談だがうちの爺様は機械好きで「新し物好き」なのだ。倉庫にはベンツSクラス一台分の価格に相当する農器具が鎮座している。「このトラクター、コンピューターで動くんやでェ、ほらッ、乗ってみ」とひ孫二人を乗せて嬉しそうにしていた。三菱の赤いボディーのトラクター、コンバイン、6条植えの田植機。田舎のフェラーリです。稲作については農薬の代わりに「酢と焼酎を混ぜたもの」を散布して殺虫していたと聞く。酒屋の人が〈これだけの焼酎を一体何なさるんで?〉と目をむいたという話もある。黒米、赤米もその伝で目新しいものや、珍しいことに興味があるのである。山芋の栽培も手掛けたがこれは上手くいかなかったようだ。
稲刈りをする話。稲刈り鎌を手に取ると体と手が勝手に動き、サクサクサクと6株刈り取り、一度きれいな地面に置いておき、もう一回6株刈り取り先に置いておいた上に交差して置く。その12株を藁で束ねる。 動作としては一連の動きなわけで、それが自然にできてしまう。結んでくるっと稲束を回転させ同時に藁をねじり縛った藁自身と稲束の隙間に「ギュッ」と差し込む。はいッ一丁上がりッ、てな調子である。それを見て周囲では〈ほォー〉とか「へェー」とか感嘆の声がする。気を良くして、ドジョウ掬いでもするように自然と次の稲株へと体が向かう。鎌がさくさくと稲を刈る。稲刈り鎌は鋸刃で少し湾曲している。切るより刈るという感覚で小気味よい切れ味と音がする。小5,6の頃はよく農作業の手伝いをしていて今でもその感触を体が覚えているのだろう。
2月26日朝10時頃、弟からの電話で、母が緊急入院したことを知った。脳梗塞が原因らしい。 2.26事件である。実は前日の25日実家に帰っていた。翌日弟と草餅作りに熱中し、面会に最適の昼を過ぎてしまった。「まあいいか。またにしよう」と母に会わずに奈良に帰ってきてしまったのである。もしもこのまま母に何かあったら「この親不孝者」と家族からのそしりは免れまい。ともかく急遽とは言えないが3月6日になって出石に帰った。翌日7日昼すぎに病院で母に面会しその顔を見て一安心した。1時半頃になり、さぁ帰ろうとしたとき女性の看護師さんから「今日2時に退院予定となっていますが」と聞かされた。万が良かった。退院を見届けてから帰ることにした。2時半頃になって、介護施設から迎えの人が二人やって来られた。やれやれである。 施設の二階にある大食堂につくと大勢の老人たちが一斉にこちらを見た。 どこからともなく「お帰りなさい」と声がした。2階の12番地と書かれた部屋のベッドに寝かされた母は穏やかな顔をしていた。右目が開いてなく左目だけ開いていた。「誰だか、わかるか」と声をかけるとわずかに笑って「・・ちゃん」と言った。入院することになる少し前。冗談で「・・・重きに泣きて三歩歩めず」だねと弟と笑っていたものだが、とうとう「たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆめず」になってしまった。それほど母はこじんまりと小さくなっていた。
我が人生を振り返れば母に褒めてもらいたい一心でここまで生きてきたような気がする。「友がみなわれよりえらくみゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」そんな若き日々も確かにあった。森田公一とトップギャランの「友が偉く見える日」が流行った頃は母も私も随分と若かった。そんなことを考えていたら、突然布団の下から母の手が動いて私の手を握った。ぎゅっ ぎゅっと強く握った。驚いて母を見ると片目でじっとこちらを見ていた。母の手は小さくて暖かかった。
「母さん、これやったらクワ握れるで」その調子や。でももう苦労せんでもええんやで。真っ黒になって働かんでもええんやで。と心に思いながら、ぎゅッ ギュツと握り返していた。病室の窓から故郷の山が見えた。もうすぐ春の兆しがあった。今度来るときには菫の花を一鉢もってきて窓辺に飾ってあげよう。 <藤原>
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