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暮らしのカタチ ― シソの実の実るころ ― >>バックナンバー一覧へ戻る

 朝はNHKのニュースを見る。ウォーキングマシーンで歩きながら見ていることもあるし、ソファーに寝転んでいることもある。平成27年10月13日の朝、歌手の加藤登紀子が出演していた。「1968年の歌」をどうしても歌いたいと言っていた。1968年といえば東大紛争のころである。1969年度の東大入試は中止となった。彼女の夫は学生運動の闘士であったなと記憶が蘇った。その頃私は高校の二年生でバレーボールに熱中していた。東大紛争と言ってもさほどの関心があったわけではなく、朝から晩までバレーボールのことを考えていた。

 自宅の裏庭に水やりするのも日課といえば云えなくもない。ミニトマト、キュウリはもう終わって小さな畑は冬休み。柿と棗は食べ頃になっている。白いヒガンバナが終り、黄色いヒガンバナが五輪咲いて風にゆれている。そのヒガンバナの周りに今年は青紫蘇が群生した。群生したシソにはあきれるほどの「穂」が茂っていた。白か薄紫の小さな花が咲いていたのは10日ほど前のことだ。その朝水をやっていると「今ですよ、今日ですよ。収穫日和ですよ」とシソたちの声を聴いた。ザワザワと揺れていた。黒い大型の蝶が二羽〈二頭というべきか〉ひらひらとシソの群生の向こうにある琉球アサガオが作る垣根の辺りを舞っていた。

 「シャッターチャンスじゃッ」デジカメを取りに行くべしと思ったが、多分間に合わないだろうとの予感がした。こんなことは人生によくあることだ。チャンスには後ろ髪がない。それよりじっくり観察する道を選んだ。よくあることさ、あの時なァ あの時ああしとけばよかったのに、ということがさ。
黒い蝶はしばらく遊んでいたがやがて急に思いついたように去って行った。朝鮮海峡を白い蝶が渡って行った。そんな風に蝶は飛び去った。

 




 シソの実は穂の根元を人差し指と中指と親指で軽く撮(つまむ)ようにして穂先に向かって扱く(しごく)。スリーフィンガーである。バレーボールのパスで鍛えた三本指である。こんなところで役に立つとは思わなかった。シソの実は若すぎると実離れがせず、実りすぎると中の黒い種がはじけて飛んでいってしまう。だから収穫日は2〜3日の限られた日となる。それは山椒の実の収穫にも似ている。丁度良い実り具合なので「ブチブチブッチ」という心地よい音がした。

 加藤登紀子のことを考えていた。阿川弘之「雲の墓標」のことを考えていた。言ってみれば青春の墓標を歌いたいのだろうか。私といえば高橋和己、開高健,安倍公房でもがき苦しみ、遠藤周作に救われた日々だ。それでも生きてきて還暦を過ぎて秋の陽だまりの中で「ぼー」としながらシソの実を(も)いでいる自分とは一体何者なのだろうかと思う。

 シソの実は中型のアルミボールに八分ほどの収穫となった。これを塩漬けにして熱いご飯にのせて食べたら美味しいだろうなと考えると何だか嬉しくなってきた。先ほどの蝶はもう戻っては来なかった。それはもうずいぶん前、若かった頃の思い出に似ている。蝶は若き日に出会った友達と時代を共有した記憶だ。記憶は苦い味がする。記憶は酸っぱい味がする。レモンかグレープフルーツの味だ。しかしまだ発酵せず熟成もしていないワインのようだ。若き日々の記憶が〈ロマネ・コンティ〉になるにはもう少し時間が必要なようだ。 <藤原>

 

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